中村伯耆守惟冬と 一心行の桜

(なかむら ほうきのかみ これふゆ)

はじめに

 平成7年6月29日久木野の「グリーンピア南阿蘇」でお世話になっている売店のMさんに
「一心行の桜」の話をしていると、本に紹介してあるという事で、見せていただいた。
熊日の本「くまもと花の名所」に満開の「一心行の桜」が紹介してあった。


「宇土郡内の矢崎城主の菩提樹で末裔の峯茂氏と地区の人達が手入れ。
胴回り6m 樹高22m 枝の差し渡し30m」

 樹齢もなし。私にとっては物足りない説明であった。
それよりも何故阿蘇の白水にあって、宇土郡内の城の殿様の菩提樹なのか、殿様はどんな方だろう、
阿蘇と矢崎城の関係は、末裔の峯氏と矢崎城の関係は、そもそも矢崎城は宇土郡内の何処にあるのか。
 気になるのは、何故宇土郡と阿蘇のこの地が関係があるのか、興味が沸いてきた。
しかし、中途半端な説明は、どことなく探求心をかきたてるものだ。

 実は、6月26日病院のF先生(今では故人)のお宅にお邪魔した時、
4月17日に撮られた見事な「一心行の桜」の写真を拝見した。
先生がおっしゃるには「周りに古いお墓があるので、どうも昔のお寺の跡みたいな気がする」と。
先生は最近足が少しご不自由なので、私がそのへんの調査を引き受けることにした。

まだ実物を見ていなかったので、売店へ押し花納品の後、その足で桜を見に行くことにする。
場所はあらかじめMさんから聞いていたので、グリーンピアから一望できる南郷谷を見渡し、
桜の木を探すと、ちょうど中松小学校の裏手に当たることを確認する。

 小学校横の細いなだらかな入り組んだ坂道をのぼると、前方にうっそうと茂った大きな樹が見えた。
近寄ってみるとさすがに大きい。4月の花の季節はさぞ見事なことだろう。
菩提樹といわれるように、周りに古いお墓が幾つかあった。その中に比較的大きなお墓が二つ。


「峯伯耆守一門之墓」
もう一つの墓標には
「峯傳右衛門惟一墓」
(明暦元〜末年?3月27日卒?法名玄....)とまで見える。
この方の菩提樹だろうか。

近くで野良仕事をされていたおじさんに話を聞く。

「桜の木は昔二回の落雷にやられたと聴いています。
お墓は中松小学校の場所にあったらしいけど、明治の小学校創立の時、この場所に移したという事ですバイ」
「昔ここにお寺があったとはきかれませんでしたか」「サア そげな事はきいたことはありまッセンね」


一、宇土半島へ

 阿蘇に住んで(現阿蘇市の赤水)12年になるが、阿蘇神社阿蘇家の事を少しでも勉強していたら、
この時すでに阿蘇家に関係のある宇土郡は何処か。
阿蘇家と白水村(南郷谷)の関係等はすぐピンときたはずである。この歳で無知な己が恥かしい。

 7月8日 「熊本県万能地図」で宇土郡の地図を広げ、東西南北くまなく矢崎城趾を探し、ついにお城を探しあてる。
地図では不知火海に面した三角町郡浦の郡浦漁港の横の岡の上に位置している。
 早る気持ちをおさえ行ける日を待つ。

 7月10日 午後より追跡調査を開始。早速現地を訪ねることにする。
その日は、今年最高の32度湿度75%。宇土半島の網田より山越えをすることにした。
車で山に入るときは暑くてもクーラーを入れない主義でなので、
窓を全開にし吹き付ける熱気をいっぱい浴びながらひた走る。同乗者がいればとても黙っては乗っていないだろう。

  網田から山道にいる。みかん畑の防風林に巻き付いたノウゼンカズラの花が、有明海の青い海原に一層引き立っていた。
山に入るにつれ熱気がなくなり、ヒンヤリしてくる。私はこの感触を味わいたいのでクーラーを入れない。
峠を越えると、前方に不知火海がひろがった。狭い坂道を下るにつれてまた暑さがぶり返してきた。

 郡浦漁港の岸壁に車を着け、あたりを見渡すと、それらしき丘陵が海に突き出していた。
小さな岬のようだ。もう一つ松橋寄りに岬があり、そこには老人保健施設「青海苑」が建っていた。
自転車で堤防を通りかかった青年に、矢崎城の事をたずねると「地元のものでないので分かりません」という。
そう言えば何となく街っぽい青年。

 手前の丘陵に登ってみることにする。国道より丘陵に向かってかなり民家が密集していた。
車を置いて歩く。途中に小さな神社があった。暑いのでちょっと休憩。宮地嶽神社だ。
社を覗いてみると、併神として中村伯耆守惟冬の名が見えた。(峯伯耆守ではないが何となく胸騒ぎがした)
 民家の一番はずれの先に丘陵は続いていた。真下は不知火海が広がる。
みかんを消毒していたおじさんと話した。「たしかこの先のみかん畑の中に塚みたいなものがありますバイ。」
梅雨明けの夏草がおい茂った畑の小道を奧へ行くと、途中に古い山川家の墓があった。
山川家と矢崎城の係わりがあった事は後で知る。その奧にまだ「ふんたくり道」が続いていた。

先端の一番小高い場所まで行くと、供養塔として観音像が建っているのが見えた
ここだと走り寄り、まず大理石に刻んである説明を読んだ。
熱気と汗で曇るメガネを拭きながら手帳に書き写す。チラッとF先生の顔が脳裏をかすめた。


「戦国時代、天正12年10月15日、薩摩国島津藩ノ大軍ノ襲来受ケ矢崎城主、中村伯耆守惟冬氏之ヲ受ケ、防戦セシモ衆寡敵セズ、遂ニ御夫婦ヲ始メ家臣一同玉砕セラル(肥後国誌禄)依ッテ其ノ御霊ヲ祀ル」 
            平成2年8月吉日 建立 山川家末裔 山川松平

  三角町教育委員会の説明柱には
 「矢崎城は、宇土城、田平城(網田)と共に、宇土三古城の一つである。阿蘇大宮司の家臣 中村伯耆守惟冬城代の時、天正8年(1580年)薩摩の島津義久3万余に攻められ一族総て討死したという」

中村伯耆守惟冬は阿蘇大宮司の家臣と分かった。これで矢崎城と阿蘇のかかわりが少し分かってきた。
末裔の山川家の墓もすぐ近くにあったので、山川氏と矢崎城との係わりを知りたかったので、
郡浦郵便局に寄り山川氏の家をたずねたが、この近くにはないとのこと。
ちなみに矢崎城趾の場所をたずねると、なんと老人保健施設「青海苑」が昔の矢崎城の跡です。と教えてくれた。
「手前の岬がそうじゃないんですか。供養塔もありましたよ」と教えると、
「そうですか、地元にいて全然行ったことがないものですから、
たまにたずねてお出でる方には「青海苑」の方を教えていました」
と誠にのんきな話しです。

 阿蘇とのかかわりは分かったが、後は南郷谷白水村(現南阿蘇村白水地区)との関係である。
そして峯家との関係は。
その日はそれで引き上げる事にする。不知火海沿岸の道路は随分と良くなっている。
松橋経由3号線で帰るはずであったが、松合より山越えして57号線の住吉に出ることにする。
宇土半島最高峰の大岳を左に見上げながら走る。RKK熊本放送のK先輩の持ち山もこの付近かなと思いながら峠を越える。
途中の山中で岩清水が流れ出ているのを見つけ、飲んでみた。とても美味しい。「轟水源」の水源かもしれない。

  宇土で久しぶりに「小袖餅」を買う。城南経由で走る車中、運転しながら夕日を背に缶コーラを飲みながら餅をつまむ。ビールが飲みたい所だが、腕は日焼けで赤くなっていたが、なんとも充実したティータイム。ふと藤岡先生の奥様の傑作、木原不動尊の「しだれ桜」の写真を思い出し、寄ってみることにする。雁回山の麓の木原不動尊も久しぶりだ。階段を上がった門の左手に、樹齢百数年の見事な「しだれ桜」がある。ピンク色の満開時の姿を思い出しながら、不動尊に礼拝し、トイレを拝借して帰路についた。


二、肥後戦国物語

 その夜は、自宅にある肥後の郷土誌総ての本を引っぱり出して、復習を兼ねて確認した。中世の肥後戦国物語りもなかなか面白い。 「天正8年10月15日 島津・名和連合軍が阿蘇領の矢崎城、田平城(網田)を占領(島津国史)」荒木栄司著「肥後古城物語」より。

 阿蘇には、阿蘇四個社という名称があり阿蘇関係の神社として最も重い位置を持つもので、

 ・阿蘇神社(阿蘇一の宮)
 ・健軍神社(健磐龍命の荒御霊を祀る)
 ・甲佐神社(祭神 阿蘇大宮司の始祖 惟人命)
 ・郡浦神社(国造神社の祭神 速瓶玉命の妃で惟人命の母である雨宮神を祀る。阿蘇神社最初の末社である。)

 現在の阿蘇、上下益城、飽託、宇土におよび、およそ八千町歩におよんでいる。
阿蘇神社を肥後一の宮というのはこうしたことからくる。 
荒木精之著「阿蘇」なるほど、郡浦矢崎城は阿蘇の神領地だったのだ。
そういえば、郡浦に着く手前に立派な神社を見た。郡浦神社だったのだ。

 天正8年は、1580年。今から415年前のこと。たしか藤岡先生は「樹齢150年位らしいですよ」とおっしゃっていました。矢崎城主の菩提樹にしてはあまりにも時がずれている。
 翌日、白水の中松小学校に電話をしてみた。校長先生が出られた。中松小学校は創立121年目になるとのこと。明治7年の創立。「峯家のお墓はそこから移転したとききましたが。」「いや移転したのは今の校舎の横にあった天神様を校庭の横に移転したときいて居ます。峯家のお墓は昔から桜の木の下にあったそうですよ。」「樹齢は300年〜400年くらいときいています。」
 菩提樹と中村伯耆守惟冬との年代がある程度近づきました。 

 念の為、白水村役場観光課に電話してみました。皆会議中で分かりませんとのことで、教育委員会へ回してもらう。女性の職員が「白川水源の資料は沢山ありますが、桜の資料は」と云ってガサゴソ探してくれましたが、結局、桜のある場所は峯家の私有物で、中松小学校の前の薬局が峯さんの家です。と分かっただけ教えてくれました。

 7月12日 峯薬局で胃薬を買ったついでに?桜の話を聞いた。奥様の話では中村伯耆守と峯伯耆守は同一人物である。
伯耆守の奥様が阿蘇家から嫁いだという。と云うことは峯家は阿蘇家の支族になる。
桜の木の北側になる御竈門山(おかまどやま)の麓に、昔は峰村があり、その領地にお城を建てたそうだ。
「鶴翼城」今でも城跡があるそうだ。「かくよくじょう」何とも響きのいい名である。
 峯家の本家には、いろいろ古文書があったが、戦前朝鮮に行っていた留守中にことごとく無くなってしまったそうだ。
しかし今でも当時の鎧兜はありますとのこと。

白水村(現南阿蘇村白水地区)と峯家を訪ねて 


 田尻盛穂氏(80歳)史学会員、農耕研究会、天正会員、文化財保護審議会等いろいろお世話をされているみたいでした。
天正戦国時代の面白い話を1時間30分ほどお話をお聞きしたしたが、
こちらも勉強不足、メモをしながら峯家に関することだけ記憶に残し、まとめるとなると大変だ。

 桜の付近は中松地区だが、昔は中村であった事。阿蘇神社の最初の末社とした郡浦神社の社領に矢崎城を建てたとき、伯耆守の親友甲斐親直(宗雲)が、矢崎城の城主は峯伯耆守であるとの推薦で矢崎に赴いた。
(海辺の鎮護と山国阿蘇の塩の確保のため)その時の由緒ある地名の中村をとり矢崎城主中村伯耆守惟冬となった。
気になっていた供養塔にある末裔山川松平氏は矢崎城の御用商人の子孫であった。
現在は熊本市の九品寺に住んでいらっしゃるとのこと。

 伝承では、家臣一同玉砕なっているが、実は家臣であった松浦文書には、中村伯耆守は木山城(益城町)で戦死。
奥様は、阿蘇白水峯村の鶴翼城に逃げ帰った。その時に身ごもっていた子が、後に京都で仏門に入り、父を弔うため白水に「徳正寺」を建て、峯伯耆守惟尚を名乗った。 

田尻氏は、昔お墓を建てるときは中に経文を入れていたので「「一心行の桜」の「行」は経文の「経」をあてて
「一心経の桜」の方、とおっしゃっていた。

地元の方の話し。
「桜の木一帯は一心と云って、畑の中にポツンと巨木が立ちお墓もあったので、子供の頃は気味悪く近づきがたい場所でした。」


 『鶴翼城』が気になっていたので、田尻さんに昔の峯村の場所をきいて訪ねることにする。峯村の近くらしき所に行って農作業の青年に峯村と城趾をきく。峯村は626大水害の時の山崩れで民家は流失、今は二軒しか残っていない。他の人はそのまま流れたバイパス下に、新たな家を建て移転したと、誠に恐ろしい話し。城跡は分からないとのことで、下に移転されたという農家の方を訪ねてきいてみることにした。
 逞しいおじさんが庭先から、裏山を指さして教えてくれた。
「御竈門山のオバネ(尾根をオバネと発音されるので、多分猟師さんではなかろうか)の下にちょっと出っ張った岡があるじゃろう、そこバイタ。」「途中の道路に車を置いて山道を歩きナッセ。」
「吉田線の有料道路から入るんですか」

「今から登っとナ。ソンナラわしが只で入る道バ教えるケン安心しナッセ。
夕方ジャケン用心 シナッセヨ」
と親切に農道から有料道路に入る道を教えてくれた。


再度その足で白水村役場をたずねてみる。観光課でも詳しくは分からない、村の一関の田尻さんが詳しいかもしれません。
下市八坂神社のすぐ近くです。と教えていただいた。
急な訪問で申し訳にと思いながら思い切ってお訪ねしたが運良くご在宅であった。
 
    めざせ鶴翼城

 教えられた通りに、地元の方しか知らない狭い林道を登ると、有料道路の水口橋の横に出た。
少し下ると左手に細い「ふみたて道」を確認。近くに車を止め、長靴に履き替えて杉林を登る。

登るにつれて夏草が胸まで茂り、昨日の雨で下半身はベショベショ。
山歩きは慣れているものの、薄暗くなった山道を、何とか足元を確認しながら登る。
以前此の付近の山道で大きなマムシに出くわしたので、あまりいい気はしない。
登ること約10分。平らな所に出たと思ったら、突然前方に岩の社があらわれた。
大きな松の木と山モミジでおおわれていた。汗を拭いて調べることにする。
周りは夏草が生い茂りまさに「強者どもの夢のあと」の感であった。

 奧4mほど先に何やら祀ってあるようだけど、薄暗くてジメジメした場所は苦手。
良く見ると「馬頭観音様」が祀ってある。「馬頭観音様」は、牛馬の守護神で牛馬の無病息災を祈ったそうです。
阿蘇地方ではよく見かけるが、何となく素朴で私の好きな観音様だ。 

  横に白水村の説明柱が立っていた。

 
「壇城跡 鶴翼城(水口城)とも云う。阿蘇家の家臣中村伯耆守惟冬在城す。古代阿蘇家が在城したとも云われ、天正12年3月(前320年)薩州島津の将新納忠元の乱の乱八により落城する。」

 昭和49年7月1日 白水村

 今までの私の調査では、中村伯耆守惟冬はここには在城していないはずだ。またこの城に「古代阿蘇家が在城したとも云われる」いう点も、阿蘇家が鎌倉時代に拠点を南郷谷に移していた頃、大宮司八代惟兼が鶴翼城主として在城していたかは定かでない。

 昨年秋には、白水村中松で阿蘇南郷大宮司の館跡らしき遺構が発見され、現在もまだ一部発掘作業が行われている。この鶴翼城も館に含まれていたのだろうか。
 周りをよく見回すと左右は断崖絶壁。城跡はそう広くないスペースだが、南前方は南郷谷の峯、松の木、中村地区が一望できる。この地に鶴の翼を広げた当時の鶴翼城は、個人まりした綺麗なお城だったに違いないと想像できた。「一心行の桜」は真下になるはずだ。

         安土・桃山時代と南郷谷史

ある程度分かりかけてきたので、ここでその頃の時代背景の主な出来事を簡単にまとめてみる事にする。

 
 1573 天正 1年  ◇ 室町幕府 織田信長により滅亡。
 1575 天正 3年  ◇ 信長「長篠の戦い」で鉄砲を使う。
 1580 天正 8年  ◇ 島津義久軍 肥後南部を占領。
 1582 天正 10年  ◇ 本能寺の変。
 1584 天正 12年  ◇ 阿蘇山砂石硫黄を降らし 南郷色見村が大損害を受ける。
            ◇ 島津義久 肥後に侵入 
 1573 天正 13年  ◇ 豊臣秀吉 関白になる
            ◇ 島津義久 阿蘇氏を征し、甲佐、樫志田、御船、津森の城を攻略
 
1573 天正 14年  ◇ 島津軍により鶴翼城落城 中村伯耆守惟冬戦死(天正8年12年との説も)
            ◇ 島津軍阿蘇高森城を落とし肥後国を平定する。
            ◇ 豊臣秀吉島津征伐の為京都出発。
            ◇ 島津義久 秀吉に降伏。
 1590 天正 18年  ◇ 豊臣秀吉天下統一。

 1592 文禄 1年  ◇ 秀吉第一回朝鮮出兵 文禄の役
 1597 慶長 2年  ◇ 秀吉第二回朝鮮出兵 慶長の役
 1598 慶長 3年  ◇ 秀吉の死
 1599 慶長 4年  ◇ 加藤清正、阿蘇惟善を大宮司に復し千石を給し、惟善宮地に移り住む。
 1600 慶長 5年  ◇ 関ヶ原の戦い
 1603 慶長 8年  ◇ 徳川家康、征夷大将軍、江戸幕府開く。

 7月13日 待望の「阿蘇南郷谷史覚書」が印刷元のH社より届いた。
高森町在住であられた本田秀行氏が、昭和59年1月に米寿を記念して自主出版されたものです。

 水口城 → 後の鶴翼城(壇城ともいう)鎌倉時代の南郷大宮司が本拠としていたとの説もあるが定かでないが
「阿蘇家の家臣、宇土矢崎城の城主中村伯耆守惟冬、天正14年3月6日島津勢のため戦死。
長男宇五郎は南郷谷水口城(鶴翼城)を築き、峯伯耆守惟尚(二代目)と称していたが、
その後父の菩提を弔う為仏門に帰依、了順と称し寛永12年(1635年)徳正寺を創立す。」

 千手観音堂 → 鶴翼城の麓に堂山堂(寺)というお寺があったが、今は水口川の右岸の松の木村に移っている。
この寺が中村伯耆守惟冬の菩提寺で天正中までは堂々たる寺院であったが、その後退転して小堂となったという。
本尊は千手観音、降三米 十一面四十八手 堂々たる金箔を押した仏像である。

 ようやく中村伯耆守の菩提寺にたどり着けた。
しかし、正徳寺、堂山堂とは関係のない畑の真ん中にどうして菩提樹があるのだろう。

 中村の地名は、鎌倉時代にみえる由緒ある地名であるが、明治9年の大字設定の際に、
松の木と併わされて中松となっている。3ツとも中村にあることは間違いない。
後はこの堂山堂と正徳寺の関係を調べること。
 熊本県万能地図の白水村を調べると、確かに松の木部落の横に「千手観音堂」がある。

 三、白水村の史跡をたずねて

 7月17日 家内を連れて「千手観音堂」を見に行く。
白水村は一歩国道を入るとなかなか道が分かりにくい所なので、松ノ木の友人宅を訪ねることにした。
お父さんは元白水村の村会議長をされていた方で、色々資料をお持ちだったので見せていただいた。
 「よし、今からわしが案内してやろう」ということで、結局その日は、白水村の史跡巡りと、
名水八箇所の水源を総て案内してもらった。

 一緒に車に乗っていただき、まず峯伯耆守の菩提寺 堂山寺跡地を確認、
退転したと云われる「千手観音堂」は今にも朽ち果てんばかりであった。
千手観音の横に、縦1m程の墓標らしき岩が置いてある。
字は全く確認できない。伯耆守の墓標であろうか。

 「登山寺」「光照寺」と回り、昨年発見された「南郷大宮司館の跡地」まだ一部発掘作業が行われていた。
「安養寺」「両併寺」を回って古坊中の西厳殿寺を開いたと云われる「最栄読師」のお墓にも寄る。
後藤又兵衛の屋敷跡には又兵衛の墓もあった。みんな地元の方の案内なしでは到底行けそうもない。

 案内していただいお父さんは、「このような文化財はきちんと保護せにゃならんのだけど、
何しろ村にも予算が無くてな」とおっしゃていた。
 中村伯耆守惟冬の菩提寺とされる「徳正寺」に寄ってみたものの、住職さんは留守で得るところはなかった。

 桜の木の50mほど南側に、国道325号線と平行して、南郷谷を東西に伸びる農道は、中世の戦国時代の肥後と阿蘇南郷(南阿蘇盆地)とを結び、さらに色見(しきみ)(阿蘇郡高森町)を経て、豊後竹田(大分県南西部)へ続く経済・文化交流の重要な道路が南郷往還でした。

 なお、この南郷往還も昭和46年(1971)熊本空港開港と同時に、約3kmにわたり滑走路に収用され、現在肥後側は、菊陽町の道明から高遊原(たかゆうばる)台地に至る区間に約180mの石畳道が残っています。

  農家の方の話では、
 
最近は、4月上旬の開花時期には、遠く県外からの見物客も多く、離合できない道なので農作業もままならぬとの事、又近くの中松小学校の子供達が毎年楽しみにしているスケッチの場所でもあるそうです。
 4月の花見見物には、上のバイパスか近くの駐車スペースに車を置いて周りの菜の花畑を満喫しながら歩いたが賢明である。歩いても5分とかからない。

 この辺は、昔から「「一心行」と呼び、国道付近を「せん行」と呼ぶそうで、今でも昔の人々は「今日は、どけ行くとカイタ(今日は何処に行くのか)」「「一心行まで畑しごとタイ」と使うそうだ。「一心行の桜」は一心行にある桜の樹の意味とも取れる話だ。
 しかし後述の峯氏は、このへんを一心行と呼ぶと云うことは否定された。

イラスト 川尻 昭
 初めて気づいたけど、古い方の墓標を斜め横から良く見ると、真ん中に「峯傳右衛門惟一墓」とあり、右横の字は「峯伯耆守弟峯玄馬嫡男」とあり、左横の文字は「三代目峯源之烝父」となって、裏は明暦元年の字が見える。峯伯耆守弟....としての墓標はあるが、肝心の「峯伯耆守惟冬」としての墓標は見当たらない。転々とある外の墓は昭和28年6月26日の大水害で、上の(堂山寺跡地)から流れてきたものを集めて安置したとの話しも聞いた。
四、心に残る「日本むかしばなし」

 昔々、ある村に源七じいさんが住んでいた。ある日村を流れる川にかかる石橋に遊びに行った孫の多七が、橋からずっこけて大怪我をした。それから二日目の朝、陣平ドンが畑仕事に行く途中、石橋の真ん中で突然馬が金縛りにあい、もがき始めた。そして今度は、陣平ドンが脂汗を流して身体中を震わせはじめた。翌日の夕方、正六ドンが畑仕事を終えて石橋を渡り始めると、またまた正六ドンの足がくっつき、身動き出来なくなった。

イラスト 川尻 昭
 この話は村中に広がり、誰となくその橋を「幽霊橋」「お化け橋」と呼びはじめ、村人達は橋に近寄らなくなってしまった。しかしその橋を渡らなければ、仕事も出来ないし隣村にも行けない。村人は庄屋さんの家に集まり相談のうえ、石橋をひっくり返して調べることにした。
 翌日は朝からシトシトと雨が降っていた。隣村からお坊さんを呼び、橋のたもとで お経を上げてもらいながら、源七じいさんと正六ドンは水に浸かり、橋の下から太い棒をかませ、庄屋さんと他の者は、上から石と石のすき間を鍬でこねながら、一枚一枚石をひっくり返していった。
「ナムアミダブツ ナムアミダブツ」と雨降りしきる読経の続くなか、三枚目を返そうとしたとき、橋の下に居る源七じいさんが、突然「はーて この石には何やら絵のようなものが描いてあるバイ」と言って、コツコツと下からその石をつついて上の者に知らせた。その石をひっくり返そうとしたとき、一段と雨が激しく降りだした。「ナムアミダブツ ナムアミダブツ ナムアミダブツ」お坊さんは一生懸命お経を上げた。
 「ドシーン」とやっとの事で石をひっくり返した時にはみんなくたくたに疲れ切っていた。良く見ると、なるほど絵のようなものと字のようなものが描いてある。タオルで綺麗に汚れを拭きとると、それは仏様の絵で、横の字は庄屋さんが、「なになに 道泉禅門妙壇禅角田家門之助藤原久義......」と読むとお坊さんが、「それは殿様の名ですタイ。えらい殿様で、その昔このあたりで、悪い疫病がはやった時、村人はバタバタ倒れてしもうたタイ。殿様は何とかして村人を救おうと、あちこち飛び回り、ついに自分も倒れなさった。村人はたいそう悲しんでその石仏をたてたそうでうタイ。」とお坊さんが説明すると、村人は「ヒエーッ」とひれ伏してしまった。
イラスト 川尻 昭

どうしてこんな所にその石仏が」「いままで粗末にしたのでお彼岸に合わせて霊がうったえらしたツバイ。」

 それからその石仏が刻まれた石は、橋のたもとに立てられ、線香の煙が絶えることなく、その後は何事もないのんびりした日が続いたそうな。 


 五 ふたたび峯家へ

 7月20日 思い切って峯茂氏に電話をしてみた。
話では、峯傳右衛門惟一は四代目だそうで、以前奥様がおっしゃっていた通り、
戦前朝鮮に行っていた頃古文書ははなくなったとのことで、現在の峯茂氏は17代目。
一度拝見したいな思いながら、27日訪問した。峯氏ご在宅。
奥様と同じく愛嬌のいい方で、快く話しに応じていただいた。

 桜は10年前より有名になりました。桜の開花時は、狭い農道に車が入り乱れ、周りの地主はほとほと困っています。
来年あたりは車両進入禁止になるのでは。

 話しでは「伯耆守の墓は菩提寺堂山寺跡にあったが、大水害で流されたのかもしれない。
今は分かりません。現在の菩提寺は正徳寺です」とのこと。
400年も前の事、峯氏も今は四代の峯傳右衛門惟一の墓は、桜の木の下にあるものの、
その前の初代「峯伯耆守惟冬」も墓は分からないとのこと。
先日、後藤氏とたずねた「千手観音堂」横に安置してあった石が、何となく伯耆守の墓標のような気もする。
「戦時中でも絶やす事なく、村人がお籠りをしていた」ということである。

 あくまでも、桜の木は矢崎城主の「菩提樹」としてこだわるのであれば、四代目峯傳右衛門惟一の墓をたてたころ、
子孫の方が先祖の霊を弔って中村伯耆守惟冬の菩提樹として、桜の木を植えたのではなかろうか。
明暦元年(1655年)となっているので、そのとき植えたとしてら、樹齢は340年。とは全て私の推測。

 充分には納得出来ないけど、400年前も戦国動乱の時代。全て納得しようとは間違いかもしれない。
「一心行」「一信行」今はどちらでもいいような気がしてきた。あとで熊日新聞の同級生に電話を入れておいた。
「そりゃ初耳バイ、担当に言って調べさせておく」との返事だった。

 伯耆守の菩提樹として植えられた「一心(信)行の桜」も400年たった今でも皆の心を癒してくれている。
ふと、桜の樹は現在でも峯家の私有物であり、そこは私有地である事を思い出し、話しをしているうちに、
あれほど見たかった家系図も私の頭から遠ざかっていた。
それと同時に、なんとなく「調査はここまで」と思い、丁重にお礼をのべて、峯さん宅をおいとました。

 帰りに、もう一桜の横を通ったが、夏草も刈られお墓の周りは綺麗に手入れしてあった。

おわりに

 峯家の帰り、吉田線の有料道路を登り、御竈門山の中腹、鶴翼城址を見下ろせる所に車を止めた。
すぐ下の壇々になっていた尾根に鶴翼城址が望める。
目をつぶり、飛び立つ前に鶴が翼を広げたような見事な城を想像すると、スーッとそのまま戦国武将になったような気がした。

 今日の南郷谷は晴天。しかし、うだるような熊本市内とは、別世界のように涼しい風が横切る。
澄み切った広々とした南郷谷に、波をうつ青々した水田と、くっきり浮かぶ南外輪山。
その上にかかる夏雲とのコントラストが何とも云えない。

 今まで訪ね歩いた矢崎城、鶴翼城など「一心(信)行の桜」の木の下でも戦国時代の武将の力強い叫びが聞こえてくるようだった。

「夏草や つわものどもが 夢のあと」まさにその境地。
「一心(信)行の桜」の生い立ちを調べながら、いつしか戦国武将の夢の後を追い続けていました。

 昔から、南郷谷は阿蘇谷の「苗床」と云われたくらい、阿蘇谷に比べると面積は1/3にすぎない。
しかし戦国ロマンあふれる南郷谷は、私にとってまた一段と身近なものになりました。

 藤岡先生の一言で、こんなにも楽しくのめり込めたのは久しぶりの事。
今回はあくまでも「一心行の桜」と「中村伯耆守」にまと絞りましたが、
中世の戦国時代は誠に面白い。我々祖先の残した足跡を、改めてたどらなければと、
向学心につながる胸のときめきをおぼえました。

 全くの素人が資料を寄せ集め、話しを聞きまとめただけのもので、識者にお見せ出来るものではありません。
 しかし、私にとっては、楽しく足で稼いだ記念のレポートです。

 お陰さまで最近は、どんな小さな神社や仏閣や史跡にも目が向くようになりました。
時間さえあれば車を止め、立ち寄って地元の人に話しを聞くのがないよりの楽しみになりました。

        平成 7年 7月